年間第18主日2021年8月1日

 今日のイエス様のお話しは、パンの増やしの奇跡の続きの話しで、「最後の晩餐」に繋がる内容となっています。聖ヨハネ福音書では、奇跡や不思議な業という言葉ではなく、「しるし」という言葉を使っています。「しるし」は「道しるべ」です。「しるし」は達成すべき目標ではありません。「しるし」は目的を指し示したり、まだ見えない目標について「こちらとかあちらとか」を知らせるものです。「道しるべ」で立ち止まったとしてもそれは一瞬であり、最終的なものではありません。聖ヨハネにとって、イエス様が行ったすべての奇跡は「しるし」、つまりより一般的な言葉で言うと「道しるべ」でした。たとえば、皆さんが車や電車で大阪に行こうとしたとき、途中たくさんの交通標識や案内標識を見るでしょうが、そこにはとどまらず、ただそれらを見て、あなたが正しい道を進んでいるかどうかだけを確認するでしょう。「しるし」つまり「道しるべ」は、すでに決められた計画が正しく行われているかどうかを確認したり修正するためのものです。同様に、イエス様は「パンの増やし」の「しるし」によって、現実に生きていくには物質的な栄養を越えた食べ物が必要であるということを私たちに示して下さいました。そして、イエス・キリストご自身が「命のパン」であり、その食べ物であるということを示されたのです。
 ではなぜイエス様は弟子たちにこの真理を直接教えなかったのでしょうか。イエス様は今日の福音の中で弟子たちにこの真理を伝えようとしました。ところが私たちは、彼らはそのために別の「しるし」、つまり奇跡を求めるという姿を見ることになりました。奇跡を見たからといって信仰が生れるわけではなく、信仰がなければ奇跡も起こらないのです。イエス様は答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」と。何度でも言いますが、奇跡を見たからといって信仰が生れるわけではなく、信仰がなければ奇跡もおこならないのです。だから皆さん、実際、次の日曜日以降に語られる御聖体についてのいろいろな話しが語られる一方で、イエス様は絶えず物質を超えて物事を見るようにと招いておられます。ですから、問題はパンや食べ物のことではなく、信仰の問題です。弟子たちは命のパンの良き味を知りませんでした。イエスは言われた。「わたしが命のパンである。」イエス様は、「人はパンだけでは生きられない」と言うことを思い出させる神様からのメッセージを持って来られました。これは、神様はこのような言葉の担い手を送って下さる程、神様を信じる者のことを心に掛けてくださっていることを示しています。そういう訳で、イエス様の話しを聞いていた人たちは、この「永遠の命に至るパン」を食べたくなりました。彼らは神様の愛を味わうことができるのです。だから彼らはイエス様にこのパンを下さいと求めて来ました。
 聖人たちにもそう呼ばれた「天使たちのパン」を受けるために、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。聖パウロは第二朗読でいくつか助言しています。第一は、私たちは神様と完全に一致するように求められていることです。聖パウロは私たちを励まして言います。「心のから新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に付け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と。つまり、神様と友情関係にあることです。第二は、私たち全員が兄弟姉妹になること、お互いに愛し合うこと、私たちの生活から罪を排除することです。聖パウロも私たちに「以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。」と勧めています。そして、第三には、私たちが毎日出会う人々のための模範になりましょう。、お手本になりましょう。聖パウロも私たちを励まして言っています。「古い人」から「新しい人」になるように。つまり、回心です。憎しみから愛へ移ります。これは回心を象徴しています。皆さま、神様は、客として私たちを訪れます。イエス様に対して一番のもてなしはイエス様の話しをよく聞くことです。
 聖母マリア様に見習って、神様と隣人を受入れ、愛することが出来ますように、祈りましょう。愛する皆さん、このイエス様が私たちに示した教えと道しるべは、非常に美しく大切です。なぜでしょうか。イエス様は、私たちが正しい道から逸れずに、神様の国に至る方法を教えてくれました。それは「御聖体です。」イエスは言われました。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」アーメン。