年間第14主日2021年7月4日

 「イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」しかし、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」
 皆さま、イエス様は福音を宣べ伝えるために、ただ、救いをもたらすために、故郷にお帰りになりました。神様はイエス様を通して、私たちにすべてを語り、全てを与えて下さいます。イエス様の故郷の人々は人目を引く奇跡を求めましたが、イエス様は自分自身の心の中に閉じこもって生きている彼らに回心するよう招いておられたのです。(しかし、)彼らの不信仰は非常に強固なものでした。彼らはイエス様が彼らの日常生活や心の中に関わってくることを拒否します。 彼らは、イエス様の声の方が、自分たちの利己心や自尊心の声よりもずっと大切であることを受入れませんでした。私たちは自分の計画を優先させ、神様の計画を自分の都合の良いように変えてしまいます。これがイエス様が奇跡を行うことができない理由です。奇跡にとってまず大切なもの、つまり信仰が欠けていたのです。
 ナザレの人々のこのような有様はまた、2つの点で私たちの日々の生活を顧みることを促します。ひとつ目は、イエス・キリストの前での私たちの行動・行いに関するものです。例えば、聖ヨハネの福音書のプロローグは、今日の福音書のエピソードで確認されているように、「イエスが自分の民の所へ来たが、民は受け入れなかった」と語っています。 しかし、「自分の民」とはナザレの住民、またはイエス様の時代のユダヤ人ということだけではなく、現在の人類全体もさしています。イエス様について知れば知るほど、私たちは皆、イエス様の人柄に称賛を覚えます。しかし、私たちはイエス様の教え、つまり愛、赦し、隣人を助けること、イエスに従うことなどが求められても、私たちはしばしば自分の計画を優先させ、神様の御声とご計画を沈黙させたいという誘惑にかられています。
 ふたつ目は、私たち一人一人のキリスト者としての自覚の問題です。私たちは洗礼を受けたとき、聖なる油によって油注がれた者となり、それによって、私たちは隣人のために神様の御言葉を述べ、御言葉を実現させる者にもなりました。救い主イエス・キリストは、私たちがただイエス様に従う者の仲間に加わるだけでなく、神様の御言葉と自らの行いによって他の人たちに回心を促す担い手になることを望んでおられます。
 皆様、どうすれば神様から与えらた使命を果たすことができるでしょうか。まず祈り。祈りを通して神様とお話ししましょう。次に聖書を読み、神様の御言葉を黙想しましょう。最後に何により大切なのは、神様の声に耳を傾けるように他の人を招くことです。
皆さん、ミサの終わりに、司祭は「派遣の祝福」の中で神様の名において私たちに呼びかけます。その後、「ミサ聖祭を終わります。行きましょう、主の平和のうちに。」と唱えます。これは日曜日に教会を出て家に帰って休むことだけを言っているのではありません。神様から与えられた使命を果たすようにと勧められています。
 皆さん、イエス様が私たちのために父なる神様に捧げられたことへの賛美が続けられますように。イエス様が全世界の人々を、世々続く限り、いかに愛されているを体験する愛についての真の教えが続きますように。皆さん、心を開いて、神様の愛を伝える者となるように願わずにはいられないみ言葉の賜物を神様がくださったことに感謝しましょう。アーメン。