年間第12主日2021年6月20日

「黙れ。静まれ。」聖マルコ1章25節で悪霊に向けて言われた言葉によって、同じように、嵐の海はイエス様によって鎮めるられました。皆様、今日の福音書の中で、私たちに向けられたメッセージを理解しましょう。
 イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。ここから弟子たちの大冒険が始まります。それは実際、私たちの人生の大冒険の始まりになったのです。聖マルコ福音書は私たちに言います。「激しい突風が起こり、船は波を被って、水浸しになるほどであった。」ガリラヤ湖をわたることは、地上での私たちの人生の旅路を表しています。ガリラヤ湖は私が住んでいる世界です。船は私の家族であり、私の共同体であり、そしてまさに私の心の在り様を示しています。船を襲った嵐は、今、世の中ある誘惑と悪です。具体的には、波に打たれた船とは、今の教会や私たちの人生の姿です。言い換えれば、現代正解の考え方という波が私たちの人生という船に打ちつけて来ているのです眠っているいるイエス様の姿は、イエス様が弟子たちに信頼を置いていることを示しています。イエス様は、弟子たちが旅の困難な時にきちんと対処出来ることを完全に確信しています。イエス様の眠りは私たちに対する無関心を意味するのではなく、完全な信頼を意味します。弟子たちはイエス様にすべての信頼を置くべきでした。私たちを罪から救うために来られたイエス様が、海の波に溺れて死ぬはずなどあり得ません。しかし、弟子たちは荒れ狂う波に直面してすべての信仰を失い、叫び始めます。 それは不信、絶望の叫びです。 「先生、私たちが溺れても構わないのですか。」私たちは、弟子たちのように、人生の中で何度も、永遠の救いを危うくしてしまうような困難に出会って来たでしょうし、これからも出会うことでしょう。しかし、このようなことが起こった場合でも、一つだけ対応策があります。 それは私たちの人生という船にいるイエス様です。イエス様は、人生の嵐に立ち向かおうとする私たちにとって最も確かなものです。イエス様と共にいましょう。イエス様を私たちの人生という船に乗せましょう。イエス様を私たちの人生や家族という船に乗せるための方法は、信仰、祈り、そして戒めを守ることです。何が起こってもも、神様は人を愛しておられます。この人間への神様の愛はとても素晴らしく、神様にお出来にならないことは何もありませんと私たちに言わしめるほどです。この神様の愛が止まったり、失われたりする瞬間は人間の人生にはありません。神が「眠ってしまう」、とか「私たちのことを忘れてしまう」、とか「私たち神の子どもたちに何が起こっているのかわからない」と言った瞬間はないのです。私たちは、闇の勢力や、人生嵐、訳の分からない力や、行く末も知れない運命の中に放り出されているわけではありません。私たちは神様の愛に包まれていて、人生の嵐の中に置き去りにされているわけではありません。私たちの人生の嵐の中で、神様は決して眠らず、すべてを御手のうちに置き、常に弟子たちと一緒にいたように、神様はいつも私たちと共におられます。私たちの人生の中にイエス様がいることは、私たちに平和と平穏をもたらします。聖マルコ福音書は言います。 「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。 すると、風はやみすっかり凪になった。」と。アーメン。